僕が歩いたホースボール記

ホースボールについて。ホースボールのおかげで気付けた事について。

3 馬に触れる

 

一宮乗馬センターでの中学生以来の乗馬は、

「 ホースボールしたい! 」と思っている自分からすると、

大げさに言って、

自分史に大きく残る時間だなと思っていた。

 

ほぼ最初なので、

馬に調馬策(ちょうばさく)というロープを付けてインストラクターさんを中心にグルグル周りを走るという練習をした。

 

馬のコントロールはインストラクターさん。

あとは走る馬に乗って行くだけ。

 

 

 

たったそれだけのことだけど、

初心者にはこれが恐ろしく難しい。

 

結局、軽速歩という馬の乗り方すら、全く出来なかった。

 

「  あ。ホンマにゼロからスタートや  」

そんな衝撃を受けつつ、

 

「 では、乗った馬のお手入れをしましょう 」という事で、

中学生の時の記憶なんてないので、

1からやり方を教えていただきながら、

馬のお手入れ( 馬体を清潔にする )を始めた。

 

そうして、

馬体をキレイにする中で、

僕の体に変わった変化が現れ始めた。

 

両手の手首に丸い2、3ミリのブツブツがたくさん現れ、

「 ん? 」と思っているうちに、

「 なんかこれ、かゆいな 」と感じ、

掻いてみると、

その瞬間から全身がかゆくなり、

 

「 え?! めっちゃかゆい  」へと変化し、

着ていた服をめくっておなかを見てみると、

蚊に刺された後のような湿疹が全身に

たくさん出来ていた。

 

馬の手入れを教えてくれていたスタッフの堅田さんも絶句するくらいに、

ボコボコになった肌。

そこに鈴木さんがやってきて、

「 馬アレルギーだね 」と言いながら「 それ以上は掻いちゃダメだよ 」と

言い、

堅田さんは「 馬の毛が体についたら、掻かずに水で洗うといいよ 」と教えてくださった。

 

さっき、

「 ゼロからスタートやん 」と思ったところから

「 マイナススタートやん 」と思い直し、

 

めっちゃかゆい全身を、

一切掻かないという今までに体験したことがない、

そんなことになると全く思っていなかった訓練をすることになった。

 

そういえば、

中学生の時は、乗り終わった馬の足を洗ったら、そのあとまた他の人が乗るので、

馬の毛がたくさん舞う様な、お手入れを一切したことが無かった上に、

秋から冬にかけての半年だったので、あまり毛が抜けにくい時期に馬に触れていたので、

まさか自分が馬アレルギーだとは、ずっと気がつかなかったのだった。

 

「 ホースボールどうしてもやりたい 」と思い仕事をやめて、

このあとは関西の乗馬クラブで働こうと思っていた矢先、

研修の初日から、

まさかの全身がかぶれて眠れない日々が始まった。

 

慣れない厩舎作業と、

全然出来る気がしない軽速歩の練習。

1日が終わりめっちゃ疲れてても、かゆ過ぎて眠れず、

かゆさに疲れて寝落ちするのが大体3時で

そして朝6時に起床し、

また乗馬センターに出かける。

その繰り返し。

 

そんな風になんとか5泊6日を終えて、

馬に全く触れなかった帰り道は、

かゆさが全くなく、

清々しい気持ちで、

千葉県の一宮をあとにした。

 

強烈なスタートだったので、

今でも、

当時のスタッフさんや、

細かいところまでハッキリと思い出に残っている。

 

とにかく、

この研修での最大の収穫は

僕は『 馬アレルギー 』だという事。

 

それを早く治さないと、

ホースボールするのが大変だという事。

 

 

 

2 ホースボールをしたいに変わって

 

「 ホースボールしたい 」

気持ちがそれに変わってから、

 

まずは乗馬ライフに載っていた問い合わせ先の元女性ジョッキー

鈴木久美子さんに電話をした。

 

3月の晴れた日で、

たまたま隣にいたマスという友達に、

「 おれ今から電話するけど、断られたらめっちゃ笑ろてな 」と言って

心に保険をかけ、

電話を始めた。

 

鈴木さんが電話に出た。

「 初めまして、西島といいます。僕、ホースボールしたいんです。

 中学生の時に週一で半年乗ったことはありますが、今は乗れるか分かりません。 」

その時の電話は、

その自分の言葉しか覚えていない。

 

ただ、そこで決まったのは、

一度、

千葉の乗馬クラブに行って研修をすることだった。

 

そのあと当時勤めていたホテルで5月一杯まで仕事をし、退職した。

 

ちなみに、その2ヶ月間、友達や新しく会う人、色んな人に仕事を辞める理由を言ったら、

もれなく反対や否定の言葉をもらい一生分くらいのそういった言葉を聞けた。

 

みんなの気持ちも分かるから嫌いになることはなかったし、

ホテルで働いたおかげで精神的になかなか強くなっていたから凹まなかった。

本当にホテルで働いていてよかったと心底その当時は感じた。

 

そして、更に僕には心を支える強力な味方が2つあった。

ひとつは、司馬遼太郎さんの『 坂の上の雲

もうひとつはブルーハーツさんの名曲『 夢 』

 

日本語の分かる男子なら

この2つさえあれば、何か始めようとする時には、

無限の勇気をくれる誰にでも装備できる武器だと、今でもハッキリと思う。

 

6月になり26歳の誕生日を迎えてすぐに、

ようやく千葉の乗馬クラブに行くことが出来た。

鈴木さんのお知り合いの一宮乗馬センターに5泊6日の研修でお世話になった。

 

海が近くて、爽やかな気持ちになれる雰囲気の場所に、

一宮乗馬センターはあった。

 

鈴木さんは元ジョッキーらしく小柄で華奢な方だった。

ジョッキーを辞めたあと、フランスのソミュール乗馬学校に入校され、その時にホースボールを知ったらしい。

後で観たビデオの中で鈴木さんがフランス人のホースボールプレーヤーと喋ってる映像があって、フランス語がペラペラだと知った。

鈴木さん自体はホースボールをせず、日本に紹介するというのをされていた。

まずはホースボールの大まかなルールや歴史を教えてもらい、

フランス人やポルトガル人がプレーするビデオを資料として観た。

そのビデオ自体は古くて、1990年くらいのものだったけど、

僕にとっては初めて見つけた宝物みたいに新鮮でものすごく楽しく観れた。

 

そうして、

今日本で手に入れられるホースボールの情報を全て手に入れた気分で、

実技に入って行った。

 

まずはホースボールでは無いけれど、

馬の世話の基本、

馬房掃除のやり方。

そしていろんな細々とした厩舎作業のあれこれ。

中学の時に辞めた理由がこれだった。

中学当時は体力がなさすぎたせいで辛すぎたけど、

前職のホテルが良い意味でハードだったので、

体力も精神力も鍛えられ、

 

更に26歳の僕は

「 牧場ライフやん 」「 めっちゃかっこいいやん 」と一人でウキウキしていたので、全く辛いものではなくなっていた。

 

そして、馬を扱う実技に入って、

僕は、本当に、まさか、、、という衝撃的な

自分に降りかかる事に出会うことになった。

 

 

 

 

・・・つづく。

 

 

 

 

 

1 ホースボールとの出会い

 

2009年、冬。

 

アジアでは中国の北京にあった2つのホースボールチームが、

ホースボールを存分に楽しんでいた。

そして、日本でも4箇所の乗馬施設でホースボールを試してみようと試行錯誤しているところだった。

 

その時、

僕は世界にそんなスポーツがあるなんて全く知らないどこにでもいるただの25歳だった。

友達と遊ぶために待ち合わせをしていた本屋で、

それまでの人生で一度も手に取った事のなかった乗馬雑誌、

『 乗馬ライフ 』をたまたま手に取った。

何気なく見始めた雑誌を、

簡単にパラパラめくる指が、たった一枚の写真が載っていたページでとまった。

 

ホースボールのフランス代表が整列している写真だった。

 

「なんこれ。めっちゃかっこいいやん。」と、

その瞬間に、ものすごい衝撃が走った。

そこに友達が現れて、

僕は雑誌を閉じ、ひとまず遊びに出かけた。

 

帰り道、

電車を降りて夜の道を歩きながら、

「あの写真、もっかい見たいなー」と何度も思った。

 次の日、

近所の本屋に行き『乗馬ライフ』を手に取った。

そしてまた、ホースボールのフランス代表が写っているページを眺めた。

「やっぱ、めっちゃかっこいいやん。」

しばらくその1ページだけを眺めながら、ずっと「かっこいいなあ」と

単純な感想を思い続けた僕は、その雑誌を買って本屋を出た。

 

それから、

毎日毎日、その雑誌のそのページを眺めたり、

Youtubeに載っていた「 horse ball p1mixtape volume 1 」というタイトルの動画を

暇を見つけてはずっと観ていた。

友達や、初めて会う人にも、

「 ホースボールって知ってる? 」から始まり、

その説明をしながら、いつもただホースボールの説明をしているだけの自分が

とてもダサく感じてきて

気がつけば、

ただ単純に「かっこいい」と思っていたところから、

「 おれもホースボールやりたい 」に完全に変わってしまっていた。

 

つづく・・・